![]()
「茶の心、禅語」では、裏千家15世千宗室鵬雲斎家元の御厚意により、 御家元がこれまで「淡交」紙上等に発表されました「茶」に関する「話し」「禅語」「言葉」を紹介させていただきます。
今回は、「淡交」平成九年一月号より「知足安分」、淡交タイムス 平成九年五月一日より「一挨一拶」を紹介させて戴きます。
「知足安分」
利休居士の茶道理念をあきらかにした『南方録』の官頭「覚書」に、次のように述べられていることは、みなさまもよくご存じのことと思います。即ち、
家はもらぬほど、食事は飢ぬほどにてたる事也。是仏の教え、茶の湯の本意也。水を運ぴ、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏にそなヘ、人にもほどこし、我ものむ。花をたて香をたく。みなみな仏祖の行ひのあとを学ぶ也。
みずから薪水の労をとって湯相をととのえ、心をこめて点てた一碗のお茶。そのお茶をまず最初に仏に供え、その次にはお客さまに差し上げ、最後に自分が戴く。一碗のお茶を点てた自分が最後に戴くという謙虚さ、控えめな姿勢の大切さが諄々説かれています。こうした心構え、姿勢こそが現代に最も必要なものではないかと思うのです。
私たちは茶道を修道するなかで、たった一碗のお茶を前にして「お先に」「いかがですか」とすすめあい、「頂戴いたします」「ご馳走さまでした」と常日頃から挨拶を交わしています。何でもないような会話ですが、茶道の根本精神が端的にあらわれた言葉だと言えましょう。その背景には、ものごとに対して「勿体ない」「有り難い」と感謝する素直な心と、「知足安分」(ちそくあんぶん)、つまりは足ることを知って分を安んずる精神が必要なのです。この頃とくに「勿体ない・有り難う」の心が忘れられてきているように思います。
この心は、日本人を支え、また良きお人のつながりをもたらすものであり、それがあったからこそ、戦後の日本が立ち直って世界から注目されるようになったのです。
私たちは、この素晴らしい、謙虚でしかも人を思いやる心とともに、知足安分の精神を、これからもずっと保持し、またさらに一人でも多くの方々に広げていかなければなりません。茶道はそれを実践する道なのであります。
「一挨一拶」
茶道の精進において大切なことは、相手の立場に立って考え、行うこと、すなわち、思いやり、仕え合いの心です。そして、その心を伝えて互いに信じ合うための行為が挨拶であり、挨拶の言葉により良き人間関係が生まれ、保たれるのです。
ところが、最近は言葉を忘れて頭をぺこりと下げるだけですます、心の伴わない虚礼が多く、親子の間でする挨拶が出来ていない家庭があるようです。挨拶によって心を交わす人間本来の姿が失われる傾向は本当に嘆かわしいことです。
「一挨一拶」という語句があります。禅の商量といって、日々の挨拶から相手を知るという、修行における大切な意味があるのです。「挨」は、ひらく、おす、せまる、ちかづく、という意味があり、「拶」も同じく、せまる、ちかづく、という意味があります。だから、互いに心を開いて接すること、ひいては互いに認め信じ合うということになります。人間関係を大切にする茶道において挨拶は精進の基本です。
素直に挨拶が出来ることは、人間本来の姿であり人間社会の秩序の基であります。功利主義、合理主義、能力主義など智に聡い今日の世の中で、挨拶なんて何の役にもたたないし、「しち面倒だ」と無視する向きさえあります。
江戸時代の名僧・至道無難禅師が「万事の本は信なリ、信のすたるもとは智なり」と戒めている言葉を今一度かみしめてください。
「型(かた)と形(かたち)」
「淡交」平成八年四月号「巻頭言」より‥‥‥‥‥‥‥
茶道に限らず、なにごとにも「型」や「ルール」があります。スポーツやゲームも、ルールを守らなければ、競技することも楽しむこともできません。点前の修練においても、まず基本となる「型」をしかりと自分のものどし、その上で自分自信之個性が活かせるようになれば、それがその人なりの茶道のあり方につながっていくのだと思うのです。私はそれを「型から形」への昇華だと考えます。「型」に自分の「霊(チ)=血」をそそぐことによって、それが「形」になるのです。
古来より日本人は、「霊(チ)」を非常に大切なものと考えてきました。山霊と書いて「おろち」、田霊と書いて「たち」、水霊と書いて「みち」。じつに「霊(チ)」こそは、人間の理解力を想像力を超えたものであったのす。
点前の動作が美しいとか、難しい点前が間違いなくできるとか、もとよりそれは「型」の取得という点では重要なこでありますが、さらに、その点前に自分の「血」を入れて「形」となるような指導が望まれるのであります。
‥‥‥‥‥‥‥
「仏性に南北なし」
「淡交」平成八年五月号「巻頭言」より‥‥‥‥‥‥‥
さて、海外へ出て外国の方にお茶の心を教えることの多い私ですが、先頃もフィリピンより招かれて、ラモス大統領御夫妻に親しく一碗をおすすめし、いろいろと歓談交流をさせていただきました。これは、常に提唱しております「一碗からピースフルネスを」の実践の一環ですが、こうして海外へ出ました折にいつも思いますことは、六祖慧能(えのう)禅師の言われた「人に南北ありといえども、仏性に南北なし」という言葉であります。達磨大師を初祖とする禅宗の六祖となられた慧能禅師は、もとは炭焼きを業とする無学の青年でした。あるとき、薪や炭を売りに山を降り、街へ出て、とある家の前に立っていますと、読経の声が聞こえて来ました。もとより、その意味などはこの炭焼きの青年には分かろうはずもありません。しかし、その読経の響きに何か心ひかれるものをおぼえたので、その家の老婆に、お経のことを尋ねます。
そこで慧能は、いま聞こえているお経が『金剛経』であり、慧能の琴線(きんせん)にふれた一節が「応無所住而生其心(おうむしょじゅにしょうごしん)」(応に住する所無うして、其の心を生ずべし- まさにじゅうするところなうして、そのこころをしょうずべし)という語であること、そしてその意味を知りたければ、五祖弘忍禅師のところへ行けばよいことを教えられました。
こうして慧能は弘忍禅師を尋ねましたが、なかなか簡単には禅門には入れません。これは現在も同じで、私も経験がありますから、よく理解できます。慧能も、炭焼きは炭焼きらしく山で暮らせ、ここはお前の来るようなところではない、とさんざんに言われ、上にあげてさえもらえません。そこで慧能の発したのが、先に述べた言葉なのです。
人に南北ありといえども、仏性に南北なし
「南に生まれた人もいれば、北で生まれた人もいる。しかし、生まれたときから仏性を持っている人間を、なぜ南だ北だといって区別するのだ」。弘忍禅師は、慧能のこの一語に驚いて入門を許し、のちには自分の後を慧能にゆだねるのです。
人間を、生まれた国や肌の色で区別することの愚かしさが、ここに喝破されています。
私たちは、茶道を通じて人を敬い、人と和することを実践しているわけですが、一方、そうした行為によって、自分自身も磨かれ、また自己心が啓発されてくのです。一碗を通しての区別のない真の平和、それを実現させる茶道でありたいと念じています。
合掌